Travels with an Elephant

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zoom RSS はきだめに鶴

<<   作成日時 : 2010/03/13 02:52   >>

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2007年にチェンナイに行った時、地元の連中はこぞってParuthi Veeranを推していた。この時は観る機会に恵まれなかったのだが、数ヶ月後ディスクで鑑賞して、優れた作品だとは思ったものの、サウス映画の定型を逸脱した作品であることが、評価の一因になってるのではないかと疑った。そのフェリーニ風のリアリズム作法がいかにも国家映画賞ねらいを想像させたし、ベンガル語映画やマラヤーラム語映画に比べて製作本数も多く市場も成熟しているのに、国家映画賞にはとんとご縁がないというのは、かねてよりタミルの衆の憤懣とするところだったからだ。因にこの作品、2008年度の国家映画賞では主演女優部門と編集部門で最優秀賞の金的を射止め、ようやくタミルの衆の溜飲を下げたのだった。

個別に名を挙げることはしないが、この作品以来、定型を外した作品がタミル語映画で幾つか見られるようになった。謂わばこれは、歌舞音曲を絶妙に案分しながらヒロイズムへと収束させていく従来のサウス映画とは別種の文法で語られる映画が興行的に成立するようになったということだから、ヌーベルバーグが始まったと言ってよい。以前ならこの種の映画は、誰も出資しようとしないから中央政府から資金を引いてこざるを得ず、仮令カンヌでパルムドールを獲得したところでインドでは誰一人その存在を知らないというのも不思議ではなかったからだ。

要するにParuthi Veeranの興行的成功を目の当たりにした投資家が、冒険的な脚本を抱えている野心家監督の説得に耳傾けるようになってこの新潮流が起った、換言すればヌーベルバーグの鼻祖はParuthi Veeranにあると理解していたのだが、どうもそうではないらしいことが最近になって分かってきた。定型への反乱はアミール・スルタン監督の独走ではなく、ほぼ同じ時期に(偶然なのか意図的であるのかは未だ不明なれど)同時多発的に発祥していたらしいのである。反定型的な作品に出資するような気紛れな金持ちが何人かいたわけである。現段階ではそれほど多数の事例を集め得たわけではないのだが、少なくともここに紹介するバーラジ・シャクティヴェルのKallooriはそれを実証する作品になる。リリースはParuthi Veeranと同じ2007年、ほとんど無名俳優ばかりをそろえた典型的なロウバジェット映画で、ボックスオフィス的にはヒットにまで結びつかなかったものの、国家映画賞の主演女優部門にノミネートされた。その意味で完全に忘却に沈んだ映画ではない。

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タイトルの意味は英語のcollegeがタミル語に訛ったもので、要するにこれはキャンパス青春映画である。サウスに詳しい人なら「キャンパス」と「青春」と「映画」が、タミル語映画ではほとんど結びついた前例がないことはよくお分かりだろう。その背景を喋々しだすと長くなるので止しておくが、これを同じ年に隣接するテルグ語映画界でメガヒットとなったシェーカル・カンムラのHappy Daysと比較してみるとたいへん面白い。

キャンパス青春映画という共通項はあるものの、この両者はテクスチャの上で随分と相違が目立つ。端的に言ってしまえば、Happy Daysがお洒落なのに対してKallooriは泥臭いのである。前者の舞台はハイダラバードのどことは特定されていないが、モデルがカンムラが学んだオスマニア大学付属工科専門課程がモデルになっていることは間違いないから、優等生が通う都市のエリート校で、登場人物も過半がアパーミドル家庭の出身という設定になっていた。ここで一言言わずもがなを書いておくと、インドの高等教育で都市のエリート校へ入学させようとすると、中等教育で(可能なら初等教育から)イングリッシュ・ミーディアムつまり全授業が英語で行われる教育機関に通わせることが必須で、イングリッシュ・ミーディアム校の授業料は度外れて高額であるから、最低でも親が中産階級に属していないととてもではないが経済的に持たない。その結果都市のエリート校には出身地やカーストの区分を問わず、中産階級子弟だけが集合することになる。いっぽう後者は…それを言う前にいつものようにシノプシスを紹介した方がいいだろう。

タミルナードゥ州の地方都市の文系カレッジに、9名の学生が入学してくる。ムットゥ(アキル)を筆頭とするこれら新入生は同じ高校で学んだ仲良しグループだった。かれらが所属する国史系クラスにはショーバナ(タマンナ)という女子学生がいた。バンガロールから来た都会の娘で、自己紹介も英語でするような彼女にクラスメートは違和感を覚える。しかしふとしたきっかけから、ショーバナが愛する母を亡くして傷心のまま祖父母の暮らすこの町へやって来たことを知った9人は、彼女を慰めようと心を砕き、その結果ショーバナも頑な心を解き10番目のメンバーとしてグループに加わる。彼女はデリーの歴史系名門校への転学へのチャンスを蹴って、仲間のもとに留まる決意をする。グループは他愛のない若者の集まりだったが、たったひとつ、メンバーのカヤル(ヘーマ)が定めた暗黙のルールがあった。それは何よりも友情を第一義としてそれを壊すような恋愛は御法度であること。しかしムットゥとショーバナは互いに惹かれ、グループの友誼との板挟みとなって懊悩する。2年に進級し、国史系クラスで出かけた修学旅行の途上、ショーバナはついに恋心を涙ながらにカヤルに告白し、秘かにムットゥを慕っていたカヤルも友情の前に身を引く決意をする。和解に至ったかれらを待っていたのは、しかし予想もしない悲劇だった。

幾つかの例をあげるだけでKallooriの垢抜けない設定を理解して貰えることと思う。まず舞台が地方都市の、しかも国立の文系カレッジであるという設定からしてそうである。同じ高等教育であるとしても、こちらはまったくCBITのようなエリート養成機関ではない。インドでエリートになるには、法学か医学、それに工学の流行の分野(今なら情報工学)に進むしかない。人文系が下に見られるのは中国と似たような状況だが、インドでは真の人文教育は公共教育とは別の分野で、つまりブラーミンを代表とする特定のコミュニティで口伝を中心に伝承されているところに特徴がある。Kallooriの舞台が駅弁カレッジであるというのは、9名の卒業後の希望進路が家業の農業を継いだり、鉄道公社への入社を希望したり、あるいはムットゥのようにスポーツ選手として才能を出世の糸口にしようとしていたり、ほとんど専門教育の内容が将来の就業に反映されないことからも見て取れる。そんな田舎の底辺校になんでバンガロール育ちのブラーミンのお嬢さんが入学してくるかと言えば、ショーバナの一族は英統治時代からのこの地方の支配階級で、しかも彼女は人文系ではインド最高峰のひとつに数えられるデリーのビルラ・アカデミーへの転入学の許可を待っているという設定になっているからである。

ところでKallooriの泥臭さは、逆にエスノグラフィカルな情報源となっているところが面白い。カンムラはエリート校でのキャンパスライフを、観客が事前に知悉しているものとして、主筋を補強するのに役立たないような挿話はいっさい導入しなかった。かれの目標にはHappy Daysの世界をハリウッド映画で描かれる明るくお洒落な大学生活に近似させることがあったから、インド的前近代性を連想させるような素材はできるだけ殺ぎ落とす必要があった。しかし田舎の底辺校を舞台に設定したシャクティヴェルにはそうした動機はないはずだ。むしろ現実生活に即した挿話を積み重ねてゆくことでよりリアリティを志向し、サウスの定型からの離反を図ることが目標のひとつに据えられていたに違いない。だからここで取り上げられている挿話のひとつはたいへん興味深い。新学期の最初の英語の授業で、教師がコールリッヂの「クブラ・カーン」を朗誦して(それもあの訛ったインド英語の発音でやるのが爆笑である)呆気にとられる学生たちに、自分が作ったタミル語の副読本(要するに訳本)を売りつけようとするのである。こういうのを見ると、現代インド社会の中で(これは歴史的にもそうなのだが)英語力が社会的階級変動を事前にスクリーニングするための、巨大な差別装置として機能していることがよく分かる。これでブラーミン・コミュニティとマドラセのような非西洋起源の教育制度が別回路として整備されていなかったなら、とっくに独自の文化は消滅させられていただろう。

本作がリアリズム描写に傾いているもう一つの理由として、監督の制作動機に最初から社会告発の目的があったのではないかと思われることを挙げておこう。まだ精査できてないので断言は出来ないのだが、この映画のクライマックスは実話に基づいている可能性がきわめて高い。シノプシスでは敢えて暈したが(従って以下この段落の終わりまではスポイラー・ウォーニングである。これから見る予定の人は読み飛ばして次の段落へ行って下され)実は修学旅行のバスは政治暴動に巻き込まれて放火され、ショーバナはじめ三人の女子学生が生きながら焼かれるという悲劇の最期を遂げるのである。筆者が鑑賞したAYN版のディスクには「エンディングの別バージョン」がオプションで収録されていて、そこには放火犯人が司法の手で裁かれている過程が数カットだけ挿入されている。どちらがリリース時のバージョンかまだ調査してないが、恐らくはオプションの方が監督のオリジナルで、リリース時には政治的圧力に配慮して裁判のシーンをカットしたのではないか。それは兎も角も、政治暴動から無辜の女子大生が虐殺されるというインドの前近代的現状を映像で明示しようとしたところに制作動機があるとしたならば、その発想そのものがインドの芸術映画のそれであり、本作の映像文法がリアリズムに傾斜していたとしても何の不思議もない。

さあカタイ話はこれでお仕舞いにしよう。あとはひたすらお珠ちゃんへのオマージュだ。

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今でこそタミル語映画界でトップを走るライジングスターで「タミルはタミーとナミーで持っている」と言われる(シムランが君臨したタミルの黄金時代を体験してる立場からすると、この二人の女優で持ってる映画界じたい、かなり情けないものがあるのだが…)ほどのお珠ちゃんことタマンナであるが、本作に出演した時点ではタミルではほとんど無名に等しかった。正確にいうとこれに先立つこと数年前、Kediという映画でタミルデビューを果たしているのだが、この映画ぽっと出のイリヤちゃんとお珠ちゃんをツインヒロインに配するという、今から考えると想像もできないほどゼータクな作りであるにもかかわらず、ラヴィ・クリシュナとかいうどうしようもない大根をヒーローに据えたお蔭で、さんざん悪評を買って影も形もなく撃沈した。お珠ちゃんはまずテルグでブレークして(出世作はさっきから頻りにとりあげてるカンムラ監督のHappy Daysだ)そこからタミルのトップヒロイン・レースに参入してくるのだが、この映画では改めてタミルに地歩を築かんものとの覚悟を持って、仕切り直しのつもりで演技に全力を傾注したと思しい。いや、実に好演しています。そもそもガングロチビデブのドラヴィダ系土着民の間にお珠ちゃんがひとり混ざると、文字通り掃き溜めに鶴である。同じインド人とはとても思えないほど白い。

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告白すると、筆者は本作を観るまでは、なるほどお珠ちゃんのファンではあったが、単なるアイドル系女優だと考えており、ここまで演技が巧いとは想像だにしなかった。喜怒哀楽はもとより、思春期の娘のデリケートな心の揺らぎを、ここでは全て観ることができます。

お澄ましするお珠ちゃん

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吹き出したいのを必死でこらえるお珠ちゃん

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しょげるお珠ちゃん

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泣きじゃくるお珠ちゃん

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はは〜ん、読めたわよというお珠ちゃん

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嫉妬するお珠ちゃん

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むせび泣くお珠ちゃん

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と、この調子で切りもなく続けられるのだがこの辺で自重しておこう。是非本篇を観て下さいな。要するにここでは含蓄や逡巡、嫉妬や激情といった、思春期の恋愛感情に襲われた時に女の子が感じる未知の、それゆえに制御しがたい心理的動揺が、余すことなく完璧にリプリゼントされているのである。しかもその一々が可憐でカワイイ!もうファンにはたまりません。ほとんど150分まるまるがお珠ちゃんのプロモーション・クリップみたいなもんですから。

これまで筆者は、お珠ちゃんと同世代の若手女優でいちばん演技力に秀でいているのはプリヤちゃんだと信じていた。むろんParuthi Veeranを観てそう思ったのである。しかし本作ですっかり認識を改めた。お珠ちゃんの演技の方が頭ひとつは抜きん出ていることがはっきり分かった。本作の演技で国家映画賞最優秀賞主演女優部門にノミネートされたのも決して伊達ではない。いずれにせよ、若くて美貌と才能に恵まれたヒロインたちがトップスターの座を目指して切磋琢磨するのは実に好ましいことである。筆者の中年色惚けがますます重篤化することだけはまず間違いない。

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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
観ました。

「定型への反乱」というのは、なるほど昨今のタミル映画を読み解くキーワードとなると思いました。

ただ、この【Kalloori】は、定型への離反を意図したと言うより、「インドの前近代的現状を映像で明示しようとした」のが第一動機で、結果、リアリズム描写に傾いた、というご指摘のほうが解釈としては自然なようですね。

珠ちゃん、泣いても笑っても、こちらは涙が出ました。
 
カーヴェリ
2010/03/15 23:14
この作品はやはりアートフィルムのモードで作られたもんだったんですかね?

我々の目にはお珠ちゃんアイドル映画にしか見えんのですが(笑

しかしそういう映画にも出資者がいたということがタミルの変化の兆しだと思います。

個人的には変わって欲しくないとの思いが強いんですが。
メタ坊
2010/03/17 08:04
バーラジ・シャクティヴェル監督の前作【Kaadhal】はまだ定型の範囲内とお考えですか?

【Kalloori】もまたS Picturesのプロデュースだったと聞いてます。超大作娯楽映画を撮るシャンカル監督がこういう反(半?)定型映画せっせと世に送り出しているというのは面白いですね。
Periplo
2010/03/17 23:45
>バーラジ・シャクティヴェル監督の前作【Kaadhal】はまだ定型の範囲内とお考えですか?

すみません。見とらんです。是非本作との共通性とかをご指摘下さい。

>【Kalloori】もまたS Picturesのプロデュースだったと聞いてます。

その通りです。しかしシャンカルが金出しとるわけではないはずで、おっちゃんがどういう理屈を言って出資者から金を集めてきたのかは是非知りたいところです。
メタ坊
2010/03/19 23:27
残念ながら【Kalloori】はまだ見るチャンスがありません。したがって比較も出来ないのですが、【Kaadhal】も見ごたえのあるものでした、お勧めです。
http://periplo.mond.jp/cgi/mt/archive1/2007/01/thevar_magal.html
Periplo
2010/03/21 01:26

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