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zoom RSS Kutty Srank (2009)

<<   作成日時 : 2011/01/07 10:51  

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以前、知人から光碟の寄贈を受けたPatham Nilayile Teevandi (2009)を鑑賞した際、自分はこんなメモを書いた。



冷凍庫を開けたら列車が突出してくるという「絵」が田舎くさい。これは画像処理の問題ではなくイメジの取り扱い方のスキルの問題。インド映画は演技達者が多いので簡単にパラレル映画は作れるが、象徴的映像処理に関してはロシアなどには遥かに及ばない。リアリズムに傾斜したパラレル以外おしなべて詰まらない理由である。



むろん映像的に見て、この映画にも評価すべき箇所は幾つかあった。例えばイノセント演ずる主人公の幻想の中で、夜の線路沿いを死んだ叔父がヤクシャーガナ姿で後を随けてくるところなど。派手な衣装をつけながら竹馬に乗っており、全身につけた鈴の音がしゃなりしゃなりと鳴るのである。これはかなり不気味で秀逸な映像だった。


とはいえ、シンボリックな映像を提出するには監督のジョシ・マシューはじめまだまだ勉強不足と言わざるを得ない。それはシャージ・N・カルンが本作Kutty Srankで見せた手さばきと比較すればよく分かる。さすが国際映画祭で場慣れしてるだけあって、ヨーロッパの芸術映画、ベルイマンやフェリーニをよく見込んでいるし、何よりもタルコフスキー以降のソ連映画の手法を自家薬籠のものとしているのがよく分かる。つまりこの映画は、何を描くかではなくどう描くかを見せるための映画なのだ。したがってここで監督の意図を深く忖度してもあまり意味はない。



むろん徹頭徹尾分からない映画ではなく、観客の理解を助ける幾つかの交通標識が掲げてある。それを研究家はシンボリズムと呼ぶわけだが、次に指摘するようなトリアーデン(三幅対)構造がそれに該当するだろう。


この映画は基本的に3人のヒロインを中心とする3つの挿話から成っているのだが、夫々が完全に独立しているのではなく、部分的にではあるが有機的な連続性を持たせてあるところが仕様の巧みなところだ。それらを貫くか細い縦糸がマンムーティ演ずるクッティ・シュランクなのだが、これをめぐって3つの事象がパラレルに配置してある。「地域」「季節」「宗教」が顕著なものとして確認できる。



  • 北コーチンーアレッピ周辺のバックウォーターー南マラバール

  • 冬ーモンスーンー夏

  • 仏教徒ークリスチャンーヒンドゥー教徒


このトリアーデンに何か特別な意味があると考える必要はないだろう。寧ろクッティ・シュランクがこのいずれにも所属しないことの方が重要だ。かれは定住することなく季節とともに南北に長いケーララを北から南に渡って行くし、その来歴は孤児で、いずれの宗教(コミュニティ)に帰属するかも分からず、最後にはその死すら曖昧なままに終わる。いずれにも所属しないことから却って自由にどこへも溶け込んでいき、しかし永住することなく何時の間にか姿を消している。クッティ・シュランクのキャラクターは存在者としての人間というよりは一種の現象に近い。形而上学的な言い方をするならば仮現論的性格づけが敢えてなされているといえるだろう。


筆者の感心したのは、キイタームのように見えて逆に理解を難しくする映像が適度にちりばめてあるところだ。例えば白衣の数人を乗せた虎の舳先の船が何度か登場するが、これは特に何を意味するものでもなかろう。タルコフスキーからの影響は少なくないと言うべきだろう。


そもそもこの映画、冒頭から難解な芸術映画であることを露骨に観客に思い知らせるような工夫が色々としてある。例えば第1挿話のパドマプリヤの科白だが、これからしてよく分からない。最初は字幕を作るさいの英訳がヘボなのかと疑ったがどうもそうではないようだ。科白の内容をできるだけ抽象的(かつポエティック)にして、観客に対して物語の具体的な舞台設定を容易に把握できないようにしてあるのだ。要するに話の筋を追うな、映像を見よという暗黙のメッセージなのだが、これはロシアをふくめたヨーロッパの芸術映画ではしばしば採用される技法である。


クッティ・シュランクを見るからに神秘的な人物にしなかったのも勝因のひとつだろう。監督はマンムーティにのびのびと演技させているし、それが作品に立体的な躍動感をもたらしている。マンムーティにしてみれば3つの短篇映画の主人公を同時にやるというような想定で臨んだのだろうが、元来が娯楽映画の流儀に馴染んだアクティングスタイルの持ち主であるから、「クッティ・シュランクは何者なのか?」と演じてる本人が悩み出すようなことになったら人物造型はブチ壊しである。その意味でかれ自身に解釈の自由は委ねたことは正解だったといえる。


尚、マンムーティとカマリニー・ムケルジーが作品中で演ずるキリスト教民俗演劇チャヴィットゥ・ナダカンに関しては、とりあえず維基百科の説明が格好の入門的知識になるか。优凸には幾つか動画のサンプルがある。起源論としてはポルトガル人渡来以来説とそれ以前説が対立してあるようだが、いずれにせよ南インドの片田舎でLa Chanson de Rolandをやってるのを見て驚倒した。機会あれば一度は現物を(それも屋外上演で)見てみたいものだ。


芸術映画なのでアナクロニズムを喋々しても意味はないのだが、セイロンで出家したというから上座部仏僧のはずなのに、瞑想の途中でマニ車を回しているのには笑った。単に絵的に面白いから撮ったのか、あるいはインド人の仏教理解はその程度なのか。


いずれにせよ好く出来た芸術映画だった。とはいえマンムーティのファンクラブに入ってるようなケーララの一般大衆はこの映画を見ることもないだろうし、見ても何のことやらさっぱり理解できないだろう。その意味でインド映画全体にほとんど何ら影響を与えることのない作品であるといえる。

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